移住して、今までと関わっていた人と違う環境で育った人や違う年齢層の人と話すことで、人としての器を広げられている感じがしました。
イメージは陶芸のようにお皿の原形である粘土を手で伸ばし広げているような感じです。
そう思ったエピソードが、今日仕事で考えがまとまらなくなり全然完成イメージが見えなくて、移住後の仕事で1番煮詰まっていました。
どうしようもないし、とりあえず職場の人に話して聞いてもらおうと思いました。
アドバイスを求めるというよりは、とりあえず聞いてほしいと思い今の状況を説明しました。
話した人は、いい人ですが普段話していて話が長い、同じ話を何度もする、センスが合わないと思うことがあり仕事でのアドバイスは期待していませんでした。
むしろ以前アドバイスをされましたが、その方法だと主旨から外れるし違うも思い適当に流しました。
今回も話を聞いてもらうだけの予定が、『同時進行だと大変だからこう進めたほうがいいんじゃない?』と言われました。
心のなかで『今構成考えているだけだから同時進行でもなんでもないし早く終わらないかな』と思っていました。
(書き出してみるとめちゃくちゃ性格悪いですね)
二人で話していたこともあり、ここは大人になってみようと思い、『たしかに、そっちのほうがいいですね!さすがです!』と口だけですが言ってみました。

印象管理の記事でも書きましたが、田舎で好かれやすそうな明るいおバカタレントみたいな雰囲気に近づくというのはこれかと思いました。
実際に言葉だけでも肯定してみると、『聞く気がなかったから考えていなかったけど、たしかにその進め方のほうがいいかも』と思いはじめました。
言葉だけでも肯定すると考えもそちらに傾くことがあるようです。
私が、勝手にその人のことを決めつけてアドバイスを聞くつもりがなかったのですが、人それぞれ特徴があり良いか悪いかは人や社会などそれぞれの尺度の判断でしかない。
人としての器を広げるということのひとつは、尺度を外してその人自身を認めることでもあるのかなと思いました。
ずっと前から尺度に当てはめず、ひとりひとりの個性を認めるということについては考えていて、そうしたいと思っていましたが、まだまだだなと再認識しました。
今まで認めていなかった人(認めていない自覚もありませんでした)を少し認めて尊重できたことで、人としての器が広がった気がしたという出来事でした。