アフガニスタンのニュースを見ながら朝ごはんを食べていたときに、『家があって朝ごはんが食べられることって、すごく幸せなことなんだろうな』と思いました。
そのときに、高校生で色々と悩んでいたときのことを思い出しました。
なぜ高校生のときを思い出したのかというと、私が何かにすごく悩んでいたとき、『自殺を考えている人に『『生きていればいいことあるよ』』と言うのはあながち間違いではない、死を選びたくなるほど悩んでいたからこそわかる幸せがあるのではないか』と思ったからです。
飢えに苦しんで死にそうなことがあった人は、毎日3食ありつけることに幸せを感じる一方、食べ物に困ったことがない人は3食あることへの幸せを感じられる人は少ない。
高校生のときに飢えの例について考えたときは、ひねくれていたので『たしかに、平和で飢えに困らないことは幸せだけど、途上国など飢えで苦しんでいる人にはわからないだろう精神的な苦しみが私にはあるんだ』と思いながら過ごしていたことを思い出しました。
よく人に対して『そんな悩み大したことないじゃん』と言うことを聞きますが、悩んでいる人自身がどう感じるかであって、それを否定する権利は他人にはないと考えています。
『不幸せを経験するほど幸せを感じることの幅が増える』という考えで今まで生きてきました。
私がしんどいときによく考えていたことは『無駄な経験は何一つなくすべて今後に活かされている』『辛いと感じるほど、人の痛みもわかるし強い人間になれる』と思いながらなんとかしてきました。
できないからできるになった人はできない人の気持ちもわかる、初めからできる人はできない人の気持ちがわからない。
できない人は初めからできる人を羨ましく思うけど、できないからできるになった経験は何にも代えがたい大切な経験だと自分に言い聞かせていました。
高校生の頃から最近まで、ストレスがあるからこそ幸せを感じることができると思っていたので、働かないで暮らすことに興味がありませんでした。
ですが、今は少し考え方が変わっていて『幸せな人は幸せだからうまくいっているのであり、不幸せな人は不幸だからうまくいかない』と考えています。
幸せな人はどのような状況でも幸せに生きることができ、不幸せな人はどんなに恵まれた状況でも不幸になるということです。
どんなにお金を稼げるようになって贅沢な暮らしができるようになっても、周りの人が信用できない、引きずり降ろされるのではという恐怖に怯えている人は幸せを感じることができない、贅沢な暮らしを楽しむことができません。
一方、衣食住がままならない状況だったとしても、助け合いながら楽しく生きることができれば人生を楽しみ幸せに生きることができるのではないかと思います。
人間なので、衣食住がままならない状況であれば気持ちが荒んだり、他人と比べて自分のことが惨めに感じられたりと楽しく生きることは難しいです。
だからこそ、物質や状況に依存することなく幸せに生きることができる精神を持つ人が最強だなというのが私の考えです。
どんな状況でも幸せに生きることはヨガの目標のひとつでもあると思います。
まだまだ先は長いですが、どんな状況でも幸せを感じることができる、自分の内側を平穏に保つことができるような人になることが私の目標です。