東京にいたときに、人を人として扱わない、人を物と同じような扱いをしているのではと疑問に思っていました。
コンビニにいる店員さんは決められた挨拶をしてレジをする。
それを当たり前として見ていたけど、店員さんを機械として認識していたのではないか。
電車という仕組みは人を詰め込めるだけ詰め込んで運ぶ、まさに物の運搬と捉えられているのではないか。
『人材』という言葉も人は材料、物のように扱っている象徴ではないか。
『人財』と言い換えていても、見栄えを良くしただけで、本質は何も変わっていないのかなというのが私の考えです。
どちらも言葉の内容は、『払う賃金に対して見合う労働かそれ以上の労働をしてくれるかどうか』という考えが根底にあって、物を買うときと同じ考えなのかなと思っています。
あと、仕事でよく聞くし私も思うことがありますが、『あの人使えないよね』というセリフ。
使えないって本来物に対しての言葉で人に使うことではないよなと思い、自分で思ったときは『今私は人を物として認識してしまったのかな』と気づくように気をつけています。
私の考えでは無意識に使ってしまう言葉や思ったことに本音や本質が出ると思っているので、無意識で終わらせない、気づくということに気をつけています。
こういったところで、人を人として扱わないことに対して疑問を感じていました。
私自身もそういう時がありますが、このような考えや無意識的な認識が社会の歪みにつながるのかなと考えていました。
ですが、引っ越してからこのような場面が少なくなったのかなと感じています。
人が少ないからか、それぞれが個人としてクローズアップされるというか、ちゃんと人として接することが多いのかなと思いました。
コンビニ店員も人が少ない町では支えてくれる貴重な人という認識があるのかなという感じです。
本日は考えたことの殴り書き会なので、特にこれといった結論があるわけではないのですが、私自身も社会としても、人を人として扱うという当たり前のことを当たり前にできる世の中だったらいいなと思いました。